将門の首塚だけじゃない!平将門の心霊パワーを巡る旅「茨城県坂東」
日本三大怨霊の一人、平将門。平安中期、10世紀に朝廷(京の都)の支配から東国(関東)を独立させた猛将です。英雄である一方、怨霊、心霊、呪いのイメージも強く、東京都千代田区にある「平将門の首塚」は、“祟りが怖すぎる”ミステリースポットで有名。ですが、将門の首塚だけでなく、将門の胴塚、将門生誕の地、将門戦死の地をご存知でしょうか?首塚から、将門の故郷・茨城県坂東市へ。心霊パワーを巡る旅をご紹介します。
日本最強のミステリースポット!東京都千代田区大手町の「平将門の首塚」
日本最強のミステリースポットの一つ、「平将門(たいらのまさかど)の首塚」(東京都千代田区大手町)。「将門塚(しょうもんづか)」とも呼ばれています。将門の首塚は、「祟(たた)りを起こす」と言われる心霊スポット。
昭和の初めに政府が首塚を取り壊して、庁舎を建てようとしたところ、関係者が次々に死亡。戦後、アメリカ占領軍(GHQ)が工事を始めると、ブルドーザーが横転し、作業員が死亡。人々は“将門の祟り”と畏れ、2020年の東京五輪(オリンピック)に向けた大手町再開発のエリアからも外されています。
東京証券取引所がある日本橋兜(かぶと)町。地名の由来となっているのが、写真の「兜神社」。一説には、平将門の兜を埋めた場所とされています。運気アップや勝負運を呼び込む神としても崇められている平将門。将門ゆかりの神社は多く、御首(みくび)神社、築土(つくど)神社、神田明神にも、将門は祀られています。
朝廷(天皇)に反逆し、みずからを「新皇」と名乗った平将門。天皇にはむかったことで、将門祭神廃止運動などが起こったこともあります。「反逆者」「朝敵」「怨霊」「祟り」「呪い」などと恐れられながらも、今なお多くの人々が将門を慕い、将門の首塚にお参りする人は絶えません。「怨霊」と呼ばれながらも、なぜ慕われるのか。その謎を解くカギが、平将門の故郷である茨城県坂東市界隈に残っているので、ぜひ巡ってみましょう。
平将門の故郷・茨城県坂東市、日本の静かな原風景
平将門が本拠地を築いた坂東市界隈。広々した田畑の合間を、“将門川”という名前の川が流れています。NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」、荒俣宏原作の映画「帝都物語」や「都市伝説」などで知られる将門ですが、その故郷は日本の静かな原風景。
地元の坂東市では「悪政に苦しむ民を守るため、命をかけて戦った王」として敬愛され、「将門煎餅」「将門まつり」「将門マラソン」といった、将門ゆかりのイベントや名産が見られます。
NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で、幼少期の平将門は“豊田の小次郎”として活躍しますが、ここが豊田の館跡。桓武天皇の末えいに当たる平将門は、生誕地も誕生日も、定かではありません。将門の本拠地があった「平将門公本遽豊田館跡(将門公苑)」は、将門が生まれた場所とも言われています。
今から約1100年前。富士山が大爆発を起こし、東国は凶作と大飢饉に見舞われました。しかし、国司(朝廷から派遣された行政官)は、私腹を肥やそうと、不当な税や年貢の取り立てを繰り返し、路上には餓死する人々があふれました。
将門は農民たちとともに荒れ地を開拓し、鉄を使った農具や武器、軍馬の生産、馬上から敵を切りつけるために有利な刀(刀身が反った刀)などを開発しました。こうした将門の進歩性が、やがて国家との争いに発展。将門は農民たちを守るために、朝廷から東国を独立させる戦いへと挑んでいきます。
平将門の終えんの地~「國王神社」と平将門木像
茨城県坂東市の「國王神社」。平将門の終えんの地とされている場所に建つ古い神社です。ここに立つと、将門の数奇な運命が感じられることでしょう。
将門に転機が訪れたきっかけは、隣国の常陸(ひたち)の豪族が将門に助けを求め、逃げ込んできたこと。男の名は藤原玄明(はるあき)。玄明は、国司の厳しい税の取り立てに耐えかね、朝廷の倉庫を襲い、飢えに苦しむ農民たちに米を分け与えました。朝廷に反逆した罪人。受け入れれば、朝廷との戦いは避けられない。しかし、将門は言います。「ゆっくりなさるがよい。玄明殿」。
こちらも平将門を祀る「國王神社」のご神殿。将門の三女・如蔵尼が、庵を結んだのが國王神社の始まりです。将門の娘が刻んだ写真の「寄木造 平将門木像」(茨城県指定文化財)をご神体としています。
では、将門の戦いを見てゆきましょう。天慶2年(939年)11月。ついに朝廷軍と激突します。将門軍は1000人。これに対し、常陸の国司は3000人の兵士で迎え撃ちます。敵は3倍。しかし、最新鋭の刀で武装した将門の騎馬軍団は、敵を次々に打ち破っていきます。
朝廷の圧倒的な軍勢に少数精鋭で挑み、将門は瞬く間に、関東を支配下に。仏教の守護神「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」の遣いを名乗る巫女から、将門に天皇の位を授けると告げられます。群衆は大歓声を持って祝福。平将門は「新皇」と名乗り、朝廷と対立することになります。これが「平将門の乱」。
朝廷は、日本全国の社寺を総動員して、将門を呪い殺そうとします。しかし、効果を現さず、ある噂が京の都に住む貴族たちの恐怖を倍増させます。ある噂とは、朝廷によって無念の死を遂げた菅原道真の霊魂が将門に取りついたというもの。
恐怖の頂点に達した朝廷は存亡をかけて、これまでの常識を覆す通達を全国に発します。「将門を討てば、誰でも貴族になれる」。これに応じたのが平貞盛と藤原秀郷。平貞盛の子孫が、平家の繁栄を築いた平清盛です。
平将門ゆかりの地を巡る旅~「島広山・石井営所跡」「石井の井戸」「延命院の胴塚」
写真は「島広山・石井(いわい)営所跡」。将門が政治や軍事の拠点とした場所です。将門や家臣たちの屋敷、食糧庫や馬つなぎ場があったところ。この営所は、旧岩井市の由来になっています。
石井営所跡の近くにあるのが「石井(いわい)の井戸」。将門ゆかりの伝説の井戸です。田畑に突き出た一角から、遠い歴史ロマンが感じられます。
将門を殺害する不穏な動き。「将門を討てば貴族になれる」。こうした都の動きをつかんでいなかった将門は、ともに戦った兵を村に帰し、田起こしの時期なので農作業に励むようにと命じます。民の生活を考えた寛大な措置ですが、これが将門を危機に陥れます。
将門の胴体が埋葬されたのが、茨城県坂東市の延命院。では、将門の最後をたどっていきましょう。将門が兵を解いたことを知った貞盛・秀郷連合軍は、将門の本拠地の坂東へと進軍。兵の数は2900。これに対し、将門軍はわずかに400。
しかし、将門は果敢に戦い、脱走する敵兵も多く、貞盛・秀郷連合軍を300まで追い詰めます。しかし、奮戦するも鏑矢をこめかみに受けます。天慶3年(940年)2月14日夕刻、平将門戦死。
将門の首は、京の町に晒されます。伝説では、将門の首は目をカッと見開き、カラカラと笑った後、故郷の東国へ飛び去っていきました。
延命院の不動堂の裏側に、一本の樹が植わっています。木の根はこんもりと土で盛り上がり、この塚を「将門山」、または「神田山」と呼ばれています。ここが平将門の胴塚。首を切り取られた胴体が眠る場所です。平将門の胴体が眠る塚は、簡素すぎる小さなお墓。将門を慕うように置かれたお地蔵さまの顔が安らかです。
ここが平将門戦死の地?「北山稲荷大明神」は将門の心霊パワースポット
平将門の終えんの地「國王神社」。しかし、市職員の方から、非公式で教えてもらった“将門戦士の地”が、「北山稲荷大明神」と呼ばれる場所。住宅街の裏側に、ひっそり静まり返った一本のけもの道が伸びていますが、この先に将門が亡くなったとされる聖地があります。
「平将門の乱」を描いた軍記物語「将門記」では、将門が最後に陣を張った場所が「辛島郡(猿島郡)之北山」と記されています。北山の場所は定かではないのですが、有力な一つがこの場所。石の鳥居が建ち、その奥に小さな祠があります。樹木が鬱蒼と生い茂り、薄気味悪い場所。東京都千代田区大手町にある「将門の首塚」よりも、ずっと強力な心霊パワーが渦巻いていると言われています。
古い小さな祠の隣には、「鎮魂 平将門公之碑」と刻まれた大きな石碑が建っています。個人差によりますが、「将門の首塚」では感じられない、安らかさ、静かで清浄な気配を体感する方も多いのではないでしょうか?
ここが、平将門の心霊パワーの源流と言っても良いでしょう。遊び半分の気持ちではなく、将門を慕う真剣な想いがあれば、きっとあなたを守護して下さるはず。強い運気を呼び込むことができるのではないでしょうか?
平将門が愛した故郷、茨城県坂東市
いかがだったでしょうか?民とともに、平和に暮らしたい。戦争は好まない。しかし、圧政に苦しむ民を守るため、みずから立ち上がった平将門。自分がどれだけ不利になろうとも、助けを求めに来た人はどんなことがあっても拒まず、その人を守るためにどんな支配者にも立ち向かっていく勇気と実行力。
巨大な城や墓、豪華絢爛な寺院、世界遺産に登録されるような形あるものは何一つありません。人々の記憶の中に生き続ける英雄。それこそが、平将門の魅力です。
「平将門の首塚」は有名です。しかし、怨霊や心霊、呪いだけではない、のどかな日本の原風景が広がる平和な街・茨城県坂東市を訪れ、東国の王が愛した故郷をご覧になられてみてはいかがでしょうか?
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