太平洋戦争で活躍した「日本の戦艦」最強ランキング!名前もご紹介

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太平洋戦争で活躍した「日本の戦艦」最強ランキング!名前もご紹介

世界最大、最強の戦艦として建造された「大和型」戦艦。太平洋戦争で日本が保有していた戦艦は合計12隻。運・不運もあるでしょうが、最強の装備を持っていても十分に活躍できなかった戦艦もあります。そこで、独断と偏見で、太平洋戦争で最も活躍した「日本の戦艦」の最強ランキングをご紹介。日本の戦艦の名前や、現在の沈没位置を知りたい方にもおすすめです。

12位 戦艦「陸奥」(むつ)

長門型戦艦の2番艦。

竣工当時は世界に7隻しか存在しなかった、40cm主砲を搭載した戦艦として、『世界七大戦艦』と呼ばれました。

排水量は3万3750トン。26.728ノットという、後の大和型戦艦に迫る速力を発揮。姉妹艦「長門」とともに帝国海軍の象徴として、長く日本国民から親しまれたが、1943年(昭和18年)6月8日に主砲火薬庫から爆発を起こし、瀬戸内海の柱島沖で沈没。艦体の一部が、現在も海底に残り、海中から引き上げられた主砲の砲身などは横須賀ヴェルニー公園に設置されるなど、貴重な戦争遺構として今も見ることができる。

また、海中から引き揚げられた陸奥は、放射線測定装置の遮蔽(しゃへい)材として今もひそかに生き続けている。

11位 戦艦「扶桑」(ふそう)

扶桑型戦艦の1番艦。日本独自の設計による初の超弩級戦艦で、竣工当時は世界最大の戦艦。

戦艦「山城」と同じく、速力24.7ノットでは、航空母艦を中心とする機動部隊を護衛することもできず、活躍の機会が得られないまま、「山城」とともにレイテ湾海戦に参加。

1944年(昭和19年)10月25日未明、戦艦「山城」「扶桑」、重巡洋艦「最上」、駆逐艦「満潮」「朝雲」「山雲」、時雨」という戦力でレイテ湾へ突入。スリガオ海峡でアメリカ艦隊の集中攻撃を受け、「時雨」を残して全滅。

「扶桑」型は、日本で設計した初の超弩級戦艦。防御力が弱い、主砲の一斉射撃時には艦全体を爆風が覆ってしまうなどの不具合があったが、その最期は、戦艦「大和」をはじめとする栗田艦隊がレイテ湾に突入するための犠牲となり、航空戦艦に改造されるなどの機会も得られないまま人生を終えました。

10位 戦艦「山城」(やましろ)

扶桑型戦艦の2番艦。

36㎝主砲を搭載していたが、速力が24.7ノットの低速ゆえに太平洋戦争で活躍の場がなく、内地で待機の任務が続き、砲術学校の練習艦として使用されていました。

レイテ沖海戦(スリガオ海峡夜戦)に、扶桑とともに参加。

「扶桑」が落後する中、アメリカ軍水雷戦隊から雷撃を受け、その後、アメリカ軍戦艦6隻から主砲発射弾数は計272発、アメリカ軍巡洋艦部隊は8インチ砲・6インチ砲計約3千発を受けて、昭和19年(1944年)10月25日、スリガオ海峡で沈没。山城は、多くの主砲弾を受け、艦橋が崩れ落ちても、なお主砲を打ち続けた。

艦橋を失い、第3~6砲塔は使用不能となった「山城」。しかし、残る第1、第2砲塔で応戦。3本目の魚雷が命中し、航行不能となるが、最後は1番砲塔のみで戦っていた。

9位 戦艦「日向」(ひゅうが)

伊勢型戦艦の2番艦。

戦艦が活躍する機会が失われる中、太平洋戦争中盤に航空戦艦に改造。

「伊勢」と同様に、後部の5番、6番の主砲を撤去し、飛行甲板を設け、航空戦艦となりました。

アメリカ軍はフィリピン方面に進攻を開始したアメリカ軍に対し、「日向」は捷一号作戦に参加して日本を出撃。だが、「日向」と「伊勢」は航空戦艦でありながら搭載機は1機もありませんでした。

エンガノ岬沖海戦で、アメリカ軍機の攻撃を受け、空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)を失いながらも、「日向」と「伊勢」は巧みな回避運動と、ロケット砲を含む大幅に増強された対空火力で、「日向」は主砲三式弾112発、12.7cm高射砲弾659発、25㎜機銃弾28970発、噴進砲弾250発を発射。アメリカ軍機を6機以上撃墜し、日本に戻りました。「武蔵」を沈めたアメリカ軍の航空部隊に対し、一矢を報いることができました。

その後、燃料不足のため、「日向」は呉軍港に停泊。昭和20年(1945年)7月24日、呉軍港空襲でアメリカ軍空母機の波状攻撃を受けて大破し、着底。戦艦「伊勢」「榛名」などの名艦とともに、終戦後も傷ついた姿を海上にとどめていました。

8位 戦艦「伊勢」(いせ)

伊勢型戦艦の1番艦。

ミッドウエー海戦で主要な空母を撃沈されたため、姉妹艦の「日向」とともに後部主砲塔二基を撤去し、航空機用作業甲板を設け、搭載機数22機という軽空母なみの航空打撃力を持つ航空戦艦へと改装。

だが、「日向」と同様に航空機を持たずに、捷一号作戦に参加。

対空砲火のロケット砲などが活躍し、対空戦闘でアメリカ軍機撃墜63機、もしくは44機撃墜・不確実12機などを報告しているが、戦闘詳報では『重複も相当ある』と評しています。

その後、燃料不足により、「伊勢」は、「日向」と同様に、呉軍港で浮き砲台として使われました。

昭和20年(1945年)7月1日、夜半から2時間40分にわたりB29、80機の焼夷弾攻撃を受け、「伊勢」はアメリカ軍機に対して主砲、高角砲を発砲。撃破5機を数えました。

しかし、7月24日、アメリカ軍艦載機の空襲により直撃弾11発を受けて大破、右舷に15度傾斜して着底。

空襲後、伊勢の二番砲塔は三式弾が装填されたまま最大仰角で停止。火災もひどく暴発の恐れもあったため呉市街を向いたまま発射。このときの主砲発射が、奇しくも日本海軍戦艦の最後の大口径砲の発砲となった。

終戦後、伊勢は引き揚げられ、一時期住宅として使われた。

7位 戦艦「長門」(ながと)

長門型戦艦の1番艦。

世界で初めて41センチ砲を搭載する戦艦として建造され、竣工時世界最大・最速を誇りました。連合艦隊旗艦を最も長期にわたり務め、日本海軍の象徴として長く国民に親しまれた戦艦です。

長門は、1945年8月15日の終戦時に、海に浮かんでいた唯一の日本の戦艦。

その後、アメリカ軍に接収され、核実験に使われた。

昭和21年(1946年)7月1日、ビキニ環礁でアメリカの水爆実験にさらされたが、1回目の実験ではほぼ無傷。

7月25日の2回目の実験で被ばくしたが、右へ約5度傾斜しただけで、海上に浮かんでいました。だが、7月29日の朝、海上には長門の姿はありませんでした。

夜中に誰にも看取られずに沈没。日本の連合艦隊の旗艦としての誇りを、アメリカに見せつけました。

現在、「長門」の艦体は上下逆さまで着底。

「陸奥」と同様に、竣工当時は世界に7隻しか存在しなかった、40cm主砲を搭載した『世界七大戦艦』のうち、ネルソン級2隻とコロラド級3隻は戦後スクラップとして解体。しかし、沈没した長門と陸奥(艦首から艦橋付近の第1主砲を含む約25%が海底に残されている)は今も、この世に現存している。

6位 戦艦「大和」(やまと)

大和型戦艦の1番艦。2番艦の武蔵とともに、世界最大の46㎝砲を搭載した戦艦で、世界最大の排水量を持つ戦艦。

アメリカの戦艦と撃ち合うために建造された大和だが、その機会に恵まれず、レイテ沖海戦でアメリカの護衛空母部隊と交戦し、大和が敵艦に向けて主砲を放ったのはこれが最初で、最後となった。護衛空母の装甲は薄く、世界最大の砲弾を受けても貫通し、ほとんど威力を発揮できなかった。

昭和20年4月にアメリカ軍が上陸した沖縄に向けて、特攻出撃。沖縄の浅瀬にのし上げて、浮き砲台となって敵を砲撃せよ、という命令が下る。

納得しない指令長官の伊藤整一中将に、草鹿参謀長は「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言うと、伊藤中将は「そうか、それならわかった」と即座に納得した。

大和では4月5日15時に乗組員が甲板に集められ、「本作戦は特攻作戦である」と初めて伝えられた。

かくて、大和は自分の死に場所を求めて出撃。同年4月7日に、大和はアメリカ軍の航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機による波状攻撃を受け、坊ノ岬沖で沈没。

大和の沈没位置は、北緯30度22分17秒 東経128度04分00秒。

大和が大爆発した時の火柱やキノコ雲は、鹿児島からでも確認できた。

5位 戦艦「武蔵」(むさし)

大和型戦艦の2番艦。日本で建造された最後の戦艦。

レイテ沖海戦に参加。

大和ほかの艦隊をレイテ湾に突入させるため、みずから塗装をぬって目立つ色に変え、被害担任艦として出撃。

みずからが囮となって、敵機を引きつけ、その隙に他の艦隊をレイテ湾へ突入させるという意図があった。

武蔵は爆弾10発以上、魚雷10本以上を被雷。「軍艦武蔵戦闘詳報」では魚雷命中20本被雷、爆弾17発命中、至近弾18発。生存者が戦後に結成した「武蔵戦友会」は、右舷に5本、左舷に20本以上、合計33本と推定。

武蔵の艦首部分は水没し、前後の傾斜差が8メートルを超え、前部主砲の一番低い箇所は波に洗われるほどになった。大和からは、左に15度傾斜した武蔵の姿が目撃されているが、それでも武蔵は艦首を海に沈めたまま浮かんでいた。しかし、昭和19年(1944年)10月24日にシブヤン海で沈没。

その後、推定の沈没地点に武蔵の影が見られないことから、魚雷20本を受けても沈まない驚異的な浮沈能力を持つ武蔵は、海の潮流にのって今も海底をさまよいつづけているのではないか、という都市伝説も生み出した。

4位 戦艦「榛名」(はるな)

高速戦艦の「金剛型」の3番艦。

戦艦金剛とともに、ガダルカナル島のアメリカ軍飛行場に砲弾を撃ち込む大戦果をあげました。

高速戦艦として建造された4隻のうち、最期まで生き残った榛名だが、燃料がなく動けない状態の航空戦艦「伊勢」「日向」らとともに呉軍港に停泊。昭和20年7月24、28日にアメリカ軍の航空機による攻撃を受け、20発以上が命中。大破し、着底。28日に「榛名」は、2機のB24を撃墜しました。

「榛名」は大破浸水し、着底したが、前部主砲や対空兵装の一部はなおも使用可能な状態だった。海に沈みながらも戦闘能力を持つ「榛名」はしかし、戦う機会はなく、そのまま終戦を迎えた。

3位 戦艦「比叡」(ひえい)

金剛型戦艦の2番艦。太平洋戦争の開戦時から活躍し、真珠湾攻撃に向かう、空母部隊を護衛。

第三次ソロモン海戦で、ガダルカナル島の飛行場を砲撃すべく出撃し、敵艦隊と遭遇。比叡は旗艦としてサーチライトを敵艦に照射し、味方艦隊の砲撃を支援。しかし、敵からの砲撃を一身に受け、操舵不能となりました。

その後、夜明けとともに空襲にさらされた。西田艦長は艦の保全に努力していたが、機関室全滅の報告を受けるとついに諦めて総員退艦準備、総員後甲板を下令。その後、比叡は自沈。

比叡は放棄された後も、右に15度傾斜し、艦尾も沈下しながらも浮かんでいた。駆逐艦「雪風」らが比叡の姿を探したが、すでに海面にその姿はなかった。

2位 戦艦「霧島」(きりしま)

金剛型戦艦の4番艦。

真珠湾攻撃で、戦艦「比叡」とともに、南雲機動部隊の護衛。

第3次ソロモン海戦では、「比叡」とともにアメリカ艦隊と交戦。

「比叡」が脱落した後、ガダルカナル島の飛行場を砲撃すべく行動するが、40㎝主砲を搭載したアメリカの最新鋭戦艦「サウスダコタ」「ワシントン」からレーダー射撃を受けた。霧島が受けたのは、敵戦艦2隻が搭載する計18門の40cm砲だった。これに対し、霧島は36㎝砲が8門。

「サウスダコタ」を大破させた霧島だったが、島影から突然に姿を出した「ワシントン」からレーダー射撃を受けた。霧島はわずか7分間に16インチ砲9発の命中弾を受けた。

昭和17年(1942年)11月15日。霧島はサボ島西方(265度)11浬の地点で霧島は左舷後部から転覆して沈没。それでも、サウスダコタを大破させるという戦火をあげた。

1位 戦艦「金剛」(こんごう)

日本海軍が初の超弩級巡洋戦艦として、イギリスに発注した金剛型の1番艦。改装後は高速戦艦として、太平洋戦争で活躍した。金剛は、日本海軍が太平洋戦争で使用した唯一の外国製戦艦だった。

空母を護衛し、太平洋戦争の全般を通じて最も活躍した戦艦。ソロモン諸島の戦いでは、戦艦「榛名」とともにガダルカナル島の飛行場を砲撃し、大戦果を挙げた。

レイテ湾海戦では、「大和」とともに、アメリカの護衛空母を砲撃。サマール島沖で、護衛空母ガンビア・ベイ、駆逐艦ホーエル、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツの撃沈に貢献した。

しかし、日本へ帰還する途中でアメリカ軍潜水艦からの攻撃を受け、魚雷6本のうち、金剛は左舷艦首と2番煙突下の缶室に合計2本の魚雷が命中。

乗組員の誰もが魚雷2本で沈むとは考えていなかったが、金剛はすでに艦齢30数年と老朽化が進み、レイテ沖海戦でも至近弾で浸水被害を受けていた。魚雷命中破孔に加えてリベットの継ぎ目などからも浸水。昭和19年(1944年)11月21日に台湾沖で沈没した。

一部連合国側戦史では、金剛を日本海軍戦艦の最高殊勲艦とされている。

まとめ

太平洋戦争中で、最も活躍した戦艦は、速力30ノット以上を出した高速戦艦「金剛」「榛名」「比叡」「霧島」の4隻。高速性能を発揮し、空母を護衛。夜間の海戦や敵飛行場の砲撃などに使われました。

大口径の主砲を備えた「大和」「武蔵」は温存されていたため、砲撃戦の機会が得られず、大戦艦としての威力を十分に発揮できませんでした。しかし、対空ロケット砲やレーダー射撃など、対空砲を強化すれば、防空戦艦としての役割も発揮できたため、日米の科学技術の差が勝敗を分けたといっても良いでしょう。

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